〜星のせせらぎ 太陽と月〜

こころ・からだ・魂、笑顔・元氣・幸せ、これら3つで1つの言葉を大切に、言の葉 (音と耳、観じること)手 (氣、空気、活力)目 (見守る、みつめる、慈しむ、愛)をもって、日々を日常を楽しく過ごすこと、自分の勤めにこころ寄り添い過ごしてます。ボディ/フェイシャルセラピーの施術、インナーチャイルドカードセラピー、心理占星術、トートタロットリーディングのセッションなど

命について想うこと ~解かれた いのち~

ここ数日、私の住まいの場所は、寒さ厳しい日が続いています。

みなさま、体調など、いかがでしょうか。

今週もあと少し。

どうぞご自愛くださいね。

 

 

今日は、このテーマを。

2017年に入ってから、何かに付けて、浮かぶ言葉なのですよね。

 

《命》

 

先日の蟹座満月のトートタロットでも、

“運命 Fortune”

このカードが出ました。

 

『運ぶ命』

この言葉を使って、書かせても頂ました。

 

hoshi-taiyo-tsuki.hatenablog.com


思えば、私にとって、命に向き合う場面って、今まで少ない方では無くて。

 

自分の今まで生きて来た道に、死の身近さはあって。
生死の狭間を突き付けられる場面に立ち合って来たこともある。
そして、命への後悔、人への後悔に蝕まれてきた、奥深くに溜め込んできた、根強くあった命の時期を、味わい尽くしたこともあって。

 

快晴の空でも、晴れた空を観ても、綺麗とか美しいとかで、感じられない日もあった。
その光が眩しすぎて、怨むように仰いだ空もあった。


様々な人の死に、自分の中の心模様を、引きずるように過ごしていて、懺悔の気持ちや自責の念に駆られた思いもあった。

そう簡単に気持ちの整理が付いて、片付けられる、

感じ切って昇華出来る訳では無かった。

 

悲しみや寂しさに溢れかえった自分の心、バレないように、意地張って、無理して、平気な振りして…でも表情には寂しげで悲しげな雰囲気は出ていたと思う。
周りの方々には、そんな私の心模様は、バレバレで、ダダ漏れで…そのような時も沢山、あったなぁと。

 

心を開くことから離れて、頑なに扉を閉じて。

耳を塞いで目を閉じて。

表面的には笑顔を創ることが、自然になっていた時もありました。

 


ー防衛のため

相手に対する洞察力と観察眼だけは、身に付けようとしていたり。

 

ー攻撃されないように
それは、誰から攻撃を受ける、ということではなくて、

自分の傷付く感情に、これ以上蝕まれないように。
これ以上、泣かないように、これ以上、悲しくならないように…。
これ以上、失う失望感に、襲われないように。

 

そして、特に、この命の言葉に、ぐっと、迫った、極め付けが、
先日観た、この映画。

この世界の片隅に

 

ご覧になる予定の方も、こちらにいらっしゃるかと思いますので、本当にざっくりとだけ。
〔戦時中の日本姿〕がそこにはあって。


命について問いわれ、生きることを突き付けられ…

そして、死と向き合うこと。

今一度、感じる時を頂いた映画でした。

 


敢えて話題や話の流れにならなければ、自分から口から伝うことも無くて。
だから、表立って、どうこう言って来なかった、というのもある

命・生・死についての、自分ごと。

 

そして、感じたのは、

きっと、今では、私にとって、今までの経験・体感・体験が、

命を生き切り、その先に死があることは、日常の自然なこととして、

私の中に調和として成り立てていて、馴染んでいるということ。

全て湧き上がる感情、喜怒哀楽も、自然な命の営みであるということ。

その命の営みを通して、気付かせて頂く、育ませて頂く、愛、人への思いやり、感謝の心、お陰のこころがあること。

今までのイロトリドリが、自分に自然と馴染んでいる今だから、自分の中で調和となって存在するものに変わったから。

だから、口から伝う言葉や話として、きっかけを感じて、自分のこれまでのことを話す機会が、少なくっていたのかも知れない。

 


だけれど、何故、2017年になった早々から、こんなにも、

《命》
この言葉が出てくるのか、見つめる機会が増えたのか。

 


これも何かの思し召しなのかも知れない。

 

そう、観じた時に、

自分の経験と体感を通して、感じ味わい尽くしたことで、自分なりに辿り着いた
命の育み、命の営み、命の享受
慈しみ、貴び・尊び
そして、使う命=使命について

 今、書かせて頂く時が来たのかなって、そのこころを、感じてます。

 

観じてきたままを、そのままのこころを、綴ること。

 

自分のこの体感と体験、経験が、人へと贈り、届けさせて頂くことで、

その場その場の、人それぞれの場で、

違う形となって、変容して、命の灯の強さや優しさ、温かさの拡がりに、何かのきっかけとなりますように。

 

 

どなたかの心に届く、どなたかの力になれるもの

その時なのだと、自分を信じて。この言葉を、贈らせて頂きます。

 


今まで私と出逢って下さったすべての命に、
お空に還っていった、大切な魂たちに、

想いと敬意を込めて。

 

 

必要な方に、届きますように☆彡


~~~~


私の中で、鮮明に覚えている死に立ち合った最初の場面は、祖父の時だったと思います。
祖父の時代までは、自宅葬をしていました。

日頃生活をしている家の中に祭壇が出来、家の外には花輪が飾られ、喪に服していることが、一目で分かる外観へと変わる。
そこには、日常の中に生と死を感じる場がありました。

祭壇で眠る祖父の部屋は、火が消えないようにと、代わる代わるで、祭壇の蝋燭の火が消えないようにと番をし合い、ほぼ皆が横になり、仮眠するような感じで、葬儀の日までを過ごしていました。

弔問に来た方へは、喪服(着物)を着て白い割烹着を着た姿で、女性は料理を作ったり、ご挨拶をし、皆で協力をし合い、いらした方々に応対をする。
時に泣き、時に祖父の思い出話しをし、張り詰めた心の糸が緩むような表情にもなりながら、旅立つ人への想いを寄せ、生と死について、一緒に感じ、共有し合ったように思います。
死を引き受ける、受け止める、という時間を、皆で一緒に育くんでいたように思います。

 


ですが、死というのは、上記の言葉の、引き受ける、受け止める、この一言で言い表せるものでも、決してなくて。


私と同じ年だった親戚の早すぎる死、友人たちの死、会社勤め時代の上司の方々の死…
今までの人生で、決して少なくは無かった、死を見つめる場面。

そして、実父の死。
私にとって、多感な時期だった実父の死。
自分の想像を遥かに超えた、衝撃が走った死でした。


まさに、稲妻に打たれると、比喩出来るくらいの心に迸った電気の走り。
ここまでの状況と心情になると
心って、一瞬にして砕け散るんだ、粉々になるものなんだなって。
フリーズドライしたかのように、感情の感覚が無くなるんだなって。
泣けない、何も無い感覚、空っぽ、抜け殻…
他にも沢山ありますが、体感として味わった一部は、このような感じでした。


生死の狭間を突き付けられた、人の前に立ち合った時には、
人って…発狂するように泣けるんだって、ドラマだけじゃないんだってことを、この時に知りました。


先日の蟹座満月のブログで、色々書きましたけれど…
上記の時期の私には、この蟹座満月のブログで載せましたような言葉は、絶対、紡げなかったです。
まさか、紡げるようになるとはって、その時の自分からしたら、度肝抜かれるくらいの驚き。
人は、進化して、変わる力、底力というのがあるのだと、自分ごとでの視点になるかも知れませんが、自分を通して、実感しています。



様々な死の場面に立ち合い、見送る時を迎える場面場面に、

天を仰ぎ、睨むように見つめて、吐くように言葉を発し続けた時もあった。

 

世の中には、人には、どうあがいても、どう努力しても、出来ないことがあること、
なんの力も及ばないこと、
非力なもだということも、

散々突き付けられた死の場面。

 

『私が何したっていうのよ。』
『なんで、私に、こんな想いをさせることばかりが起こるのよ。ねぇ、なんで!?』
って。
神様なんて、いやしないって、心の底から思った。

神様なんて信じない。

 

心底思った。


受け入れる?引き受ける?冗談じゃない!
運命?!宿命?!祈り!???
そんな言葉は聴きたくない!
ふざけないでよ!って。
祈ったことなんて、願ったことなんて、叶えてくれないじゃないって。

 

心底、思った。

 

だけれど、このような気持ちも持ち合わせていながらも、
もし、救えるという言葉を使えるなら、使わせて貰えるなら、

心底、救いたいと想う命しかなかったから。
救いたかった。出来る事なら。

場面場面で、いつも祈ってた。

神様は今度こそ、お力になって頂けるのではって。

助けたかった。生かして差し上げかった。
本当に、祈って届くのならば、いくらでも祈って、どれだけでも、想い描いたから。

皆の未来を描けるのなら。皆の時が、少しでも長くあるのなら。

 

だけれど、届かない想いは続いて。

 

なんで助けて頂けなかったの?

どうしたら、助かってたの?助けてくれてたの?

私が悪い子だったら、祈りが届かなかったの?

なんでそんなに早く逝ってしまったの?


なんで?なんで?!


答えの出無い、永久ループ、ずっと、こころで繰り返した。


だから、死ということについて、生ということについて、命について、

あの時こうしていれば、救えたのだろうか、間に合ったのだろうか

もっと、こういう言葉を、沢山届けたかった

もっと一杯、話したかった

悔み責める日々は沢山あった。


今まで後悔したことなんて無い
なんて、私には絶対言えない。
言っちゃいけない。
後悔という言葉を纏って生きることが、せめてもの、皆への懺悔のような心持ちとなって、過ごした時期もあった。

 

ーあの日あの時に戻れたら


人の命という火が消えること、その現実を、目の当たりにした心への衝撃は、計り知れなかった。
今になれば、自分にとって、手を出せない範疇であるって、落ち着いて、感じられることでも、

もっと早く気付いていたら、もっと、掛ける言葉が違ってたら

そう言えば、あの時このようなこと言ってたのに

そう言えば、あの時、こう感じてたのに、言葉にして伝えられなかった

って、過去から離れれば離れて行く程、回想して、自責の念を募らせたように想う。

 

常に意識は、昔に、過去に。


どうにか答えに辿り着きたくて、こころのこの葛藤を、救って欲しくて、縋るように、寄り掛かるように、外側にばかりに、人にばかり、答えを求め続けてた。

 

ー誰か私に正解をください

ー誰か私に、これまでの道を、巻き戻して、やり直せる方法を、どうか教えてください


だけれど、どうあがいたって、もがいたって、やり直せない。
正解も頂けない。
相手からのお言葉をどんなに頂いたとしても、自分の受け取る器にゆとりや吸収力が無ければ、全てダダ漏れ
例えて言うなら、両耳の繋ぎがチクワ(食べ物の竹輪)状態になって、
右から左へと、一瞬にして通り抜けて溢れて行ってしまう。

泣いたって泣いたって、涙って枯れなくて。
泣き疲れて寝て、電車の中で思い出しては、涙が流れ。

どんなに後悔したって、巻き戻る時は無い。
あの頃には、絶対、戻れない。
ただ、

という、そのことが、ある、ということだけで。


過去に戻ることは無い、そして、未来を垣間見ることも、出来ない。
あるのは、
『ここ』『今』
この表現の体感。


そんな日々を繰り返して、辿り着いた場所は…

“ここ”と“今”を自分の力を漲らせて生きて、積み重ねていくことでしか、未来の道には繋がらないし、

 “ここ”と“今”を行い尽くして、自分の中の答えや認識、納得、受け入れや引き受けなど、こういった様々なことの先に、
自分の中での過去のことへの捉え方と過去への意味付け、昇華の過程、その人にとっての答えともいう言葉と感情になっていくのだなって。


ここと今に視点を重ねて生きる、
その自分の命を精一杯、輝かせることこそが、
自分の命を生きることであり、
運ぶ命に繋がって。
その運ぶ命の先に
自分の使命、自分の命の使い方に結ばれるって、思った。

 


人との関わりに、何かを想って、こうしてたら、あぁしてたらを、もしやり直せるとしても、
きっと、同じようなこと、態度、私はしてるのだろうなぁって、思ったから。
それは、旅立たれた方に限ったことではなくて、
今までのご縁のあった方々も、今ご縁のある方々も。

実際、実父について、わたしの気持ちとしてですよ、言うとするならば、
もし、生きてたらね、きっと喧嘩も散々してただろうし、あっち行ってよとか想っちゃったりしてね。(笑)
わたしにとっての、普通の日常として、父に接してると想うのです。
もしかしたら、より邪険な態度しちゃったりしてね、孝行娘では無い気がしてなりませぬ…。

それに、人と関わり、やり取り、してきたこと、経験と…過ぎたことだから、振り返れて、反省も内省も出来ることだって、感じている、今。


使命は、自分で創るもので。
与えられるものでは、無くて。
生み出していくもので。


どんな状況でも、どんな過去があろうとも、どうな今であろうとも、
命の運び方も、命の使い方も、いま、ここから芽生えたら、それをいくらでも使えるだけのものは、自分の中に、いくらでも備わっている。


それが、私の中の、命の在り方の、一つの答えになりました。


深い悲しみは、もしかしたら、完全に癒えることは無いのかも知れない。
だけど、悲しみを知ったから、喜びを体感出来たし、
その悲しみをどのように使うかで、薄れていく悲しみはあると思った。
苦しみを味わったからこそ、幸せの味が分かるように。優しさが分かるように。
そう感じるこころにまで、綺麗事でなく、今はなれたと感じています。

 

味わいたく無かった味も、今までの道であったのも確か。
無かったことにしたい過去も、目を背けたくなる自分も、感じたことのある感情も味わった。

その味は、その味で大切に…
なんて、それこそ、綺麗事のように、ここで口付くつもりは無くて。

自分がそうしたい時は、そう感じたい時は、それが善し、きっと。
とことん、過去に目を送らず、とことん、背を向けたら良いのだと。
自分の好きなように、自分の自由にしていたら善しで。


自分の感情は、自分の中にあるものだから。


そのような日々の中で、少しづつでも、歩く力を付けていって、心の体力付けていって。
たくさんの方々に、たくさん支えて頂いて、たくさんの方々に、たくさんのものに、私自身『救って頂いた』と、心底感じること、助けられたことが、どんどん、増えていって、癒しを感じて…

空っぽになっていた、自分のこころに、少しづつ、温かで穏やかなものを感じられるようになってきた時に、

 

今までのすべてのことを、外側の目で観れば、最善と、くくれるものばかりでは無かったとしても、
その時の、私のやれる範囲でのことは、きっとしていたはずだから。
出来る範囲のことで、していたはずだから。


だから、きっと、いや、絶対、善しなのだよって。
自分にこころの緩みが生まれ、自分に赦し・許しを起こすことが、出来るようになっていたのです。

 

そして、

亡くなられて旅立たれた方々との、命の繋がりが、解けていた、離れてしまったと思っていたことが、

自分のこころと身体、魂との関係性、

自分と命の繋ぎまでもが、解けていたこと、離れてしまっていたことに、気付いたのです。

 

 

続きは、今夜のブログで♡

 

f:id:duckrin0719:20170119010821j:plain