足すも引くも無い世界
2月は駆け抜けるような時間を過ごしていたせいもあって、その反動か、3月は緩やかに時間を過ごしているように感じています。
実際、時間の使い方自体も、違うのもあって。
その1つが、
“人との時間の過ごし方”
2月は、仕事でお逢いする方々が、ほぼ9割、その中、面識ある方々も9割。
3月は、仕事以外でお逢いする人との時間も増え、さらに、初めましての方々、お久し振りにお逢いした方々が、この時期までの大半を占めています。
そうすると、自分という自分の見方や感じ方に、ちょっと変化が出て来るものだなって観じます。
新たな一面や発見というのか、自分の想っていた、今の自分の姿や自分の印象って、今感じて想っていた自分と違っていたり、変わってきたり。
もちろん、面識ある方々から頂く気付きや、学ばせて頂くことも、山ほどで。
ただ、第一印象という、初めまして、から紐解かれる印象や、イメージというものを、もう一度、というのは、すでに面識ある方々から、関係を育んで、時の流れと共にあった上で、イメージを頂くのとはまた違ってくるものですから。
そして
変化は怖いことでもなくて
不安になることでもなくて
特別なことと、思い過ぎるものでもない
日常の一部
自然の流れと同じようなもの。
桜の花も、春に花を咲かせ
新緑の時を迎え
秋には深みある紅葉となり
冬には葉を落とし
その時には、次の春に咲かせる花の、準備の為に、静かにゆっくりと、自分の命を蓄えながら、蕾を芽生えさせ、膨らみ…
新たな春に花を咲かせる。
自然の中のこのような流れは、人にも自然に備わっていて、
そのバイオリズムに同調するならば…
変化について想うことや、
視点や捉え方も、その時々で変わっていくものでもあって、
今目の前で観ていると思っている、
映っている世界も
観える世界も、
ガラッと変わることさえ、自然なのかも知れない。
今年に入って
わたしは削ぐことを増やしていて、
そして、今月に入ってからは、
いろんなことを、今までとは逆から捉えてみることも、
ちょっとしたエッセンスとして、入れてみたりしている。
例えば、足りないと想うことがあった時に、足りてるものは何だろう?とか
あると感じていることには、無いことはなんだろう?
というように、
反転させてみてみる
というような。
そんなことを、繰り返して、たくさんの方々にお逢いした時間も過ごして、
ふっと浮かんだ、昨日の言葉が…
“自分” には足すものも引くものも無い、すでに、完璧
という言葉。
ここでの自分は、1人1人の人に当てはまる意味の「自分」。
(このブログを書いている、私=自分、での表現では無くて)
成長する必要はもう無いとか、学ぶ必要はないとか、そういう意味での足すものは無い、ではなくて。
成長や進化の過程を通して、変わるもの、変わっていくもの、変えていくもの、そういう意味での引くものもは無い、でも無くて。
軽々しく使うつもりはないのですけれど、
この体感はきっと
魂について観じた
足すも引くも無い、完璧
なのだと想うのです。
イメージは、灯篭の灯りのような
キャンドルの灯りのような
灯火の揺れの中にも
芯のある、真っ直ぐ伸びる炎を感じたような
そんな言葉でした
自分には、足すものも引くものも無い、すでに、完璧
この言葉を耳にされた時
どう感じられますか
何を感じますか
何かを、感じられますか
何かを、感じましたか
自分には、足すものも引くものも無い、すでに、完璧
この言葉が表に現れたことで
起こっていくであろう何かを
これから味わっていきたいと思います
この何かを深く深く観じて
より言葉にして表現出来るようになった時に
またより深い気付きが起きた時に…
この言葉から紐解かれたもの
観えてきたものを綴れたら…
と、想います。
今は…ここまで。