週末は、熊野へ
熊野と言いますと、出雲との結び付き深く、
忌火 (斎火) (いんび・いむび)といって、熊野大社から忌火=新しく火鑽(ひきり)できった神聖な清い火 を頂いて、神事に用いているとされています。
大国主命をお祀りしている出雲と、熊野との縁(ゆかり)。
そういった結びもあるからなのか…
不思議と熊野にお伺いした後に、出雲にお伺いする流れが私にあって、
この度は、いつもの流れと逆、
昨年出雲にお伺いした後、この度の熊野となりましたが、
出雲・熊野とお伺いした時には、
うねりといいますか、波のような状況 (好転・好天と表現したくなる)が起こったり、
さまざまな流れに結ばれたりがあると観じます。
と言いましても、
“鶏が先か、卵が先か”
みたいなもので、
お伺いしたからの、何かなのか、
何かとなったことを、出雲・熊野へお伺いしたから、と勝手に?結んだのか…ですけれど、
どちらにしても、今後の様子を観察して、見つめてみたいと思います。
日本各地に神社仏閣はあって、
自然溢れる場所、表現として聖地と言われる場所は、さまざまありますが、私はこのような場所にお伺いする時って、
人のお宅にお伺いする時の感覚にも近いイメージで、お伺いするところがあります。
例えば、あるお宅にお邪魔をするとなり、そのお伺いは、そのお宅の方が作るお食事をご一緒に頂くためのお伺いでした。
となりました時に、お呼ばれしまして、お手製のお料理があり、それはそれは見事なお料理でしたから
『美味しそう。』
なんて言いながら、お食事の写真を撮ったりしながら、
(場合によってはもちろん、写真を撮ること、お伺いします)盛り上がって。
今ですと、SNSでシェアしたり、何かの時の会話で、どなたかにお写真を見せながら、会話を弾ませたりなど、するかも知れません。
けれど、そのお宅にある、調度品ですとか、何でもかんでも、写真を撮ることは、致しませんし、
そのお宅の全室を拝見させて頂く、なんて思ってお伺いすることも、比較的少ない、と言いますか、ほぼ無いのではと思います。
このようなイメージで、
日本各地の神社仏閣や、自然溢れる場所、表現として聖地と言われる場所で過ごす際は、暗黙の了解と言いますか、阿吽の呼吸といいますか、そのような所があると観じてもいて。
この度の熊野も、お伺いする場所に添って、暗黙の了解も阿吽の呼吸も観じながら、お伺い、巡らせて頂きました。
ご縁というのは、人も場所も時間も土地も…
本当に、自分一人では結ばれるものではないということ、
このような時間、自然と共に過ごす時間に身を置くことで、
改めて感じさせて頂けた、有り難いお伺いでした。
本当にありがとうございました。
それでは最後に…熊野巡りの写真を載せたいと思います。
3年目
あなたの幸せはわたしの幸せで
わたしの幸せはあなたの幸せで
あなたの幸せはみんなの・わたしの幸せで
みんなの・わたしの幸せはあなたの幸せで
この言の葉を
言葉と態度と表情で
表現して
形にして
具現化していけますよう
コツコツ
一歩一歩
勤めていく2018年へ
その形は…今まで以上に、これから、自分の後ろ姿で、表現していけましたと思っています。
祈り・平和
明日で、7年。
明日 3月11日へ
祈りと願いのこころを添えて
今年も今を明日を
過ごしたいと思います。
今日は3月10日。
この時期だから、この時だから、特に感じているのか…
分からないけれど、
わたしの中に、溢れていた言葉たち。
ー3月11日
東北のみなさま、お一人お一人の平穏な日々への祈り、
そして、全ての人々への平穏を祈って。
わたしの今のこころのままに、綴ること、
そのこころに添って、このテーマを紡ぎたいと想います。
わたしは、救われたって、感じることが、場面場面で、とてもあったし、助けられたと感じることも、そう。
今現在も、たくさんあります。
救う、助ける、という言葉たちに、抵抗は無いし、むしろ、この言葉たちは、人にとって、力となる言葉だと想っています。
言葉って、その方々の生まれた時代背景、環境、経験、関わってきた人たちや、育んできたもの、成長過程によって、言葉一つとっても、解釈や認識、表現の仕方、捉え方、使い方は千差万別で。
だから、ということは、確かにあるかも知れない、とも想っていて。
その中、わたしは、
ー救い 助け
という言葉は、これからの一人一人の心の中に、とても大切で、必要な言葉だと感じています。
わたしにとっての
ー救い
は…
目の前に歩いていた方が、突然目の前で躓かれて、転んでしまった姿があったとして、
そこに手を差し伸べて、その方の転んでしまった身体の状態から、立ち上がる時に、手と手を取り合うこと。
その立ち上がった時に、洋服に土などが付いていたら、一緒に払って差し上げて、
『擦り傷無いですか。』
ですとか、
『どこか痛い所、無いですか。』
といった、お伺いをして、大丈夫ですよ、といおっしゃるのなら、
『それでしたら、良かった。道中お気をつけて。』
というように、お言葉添えて、その場を離れること。
だから、日常の一場面と捉えていて。
ー助ける
ことについて言うのなら、
地図を持って、これから何処かへ行こうされている、目的地がありそうな方が目の前にいらっしゃって、
次は、どの道なりだ?こっち?!いや、あっちかな?!いや、まてよ、というような、ウロウロキョロキョロしているご様子の方に、
『どうされました?道、お探しですか?』
って、お尋ねすること。
だから、こちらも、日常の一場面と感じる言葉。
その時に、
『あぁー!助かりますー!実はどこどこへ…』
と、おっしゃるなら、その時に、一緒に地図を観て、どれどれ?になるし、
その場所を伺っても、わたしにはチンプンカンプンであったら、
他の方に一緒にお伺いを立てるなど、その場で自分のできることでの関わりをもって、
わたしでない、別の方で、その行き方にお詳しい方がいらっしゃったなら、ある種バトンタッチするようにして、
『では、わたしはこれで…』
って、その場を立ち去ることで。
だから、助ける、という言葉にも、なんら、特別なことと思っていないし、こうだあぁだと、定義?するようなものでもなくって。
ー日常
救いも助けも、日常であること。
躓いて転んで無い人に、
『転びました?!今?』
なんて、道端で急に聴く訳は無いだろうし、
キョロキョロしてない人に、
『今、確実に道、迷ってますよね?!』
なんて、突如お伺いをすることも無いだろうし。
だから、救いと助けは、日常で、
過度に過敏になりながら、使う必要のある言葉では無くて。
だから、
日常において、色々な場面で溢れている光景の中に、
この救いと助けも、
自然なこととして、
その時々の人との関わりや対話の中で、
こころ通わせ、寄り添わせ、歩み寄る時間と場の中に、
お互いがお互いへ自然に、表現し合えるものとして、
そのこころを大切にしていきたいと、感じています。
その救いと助けも含まれた、日常の中に、
自然なものとして、
お互いの対話と交流の中に、
笑顔が溢れ、喜びが溢れ、
一人一人の幸せが溢れている、
場と空間、時間があることを、
大切にしていけるように。
世代、性別、立場、国籍、
すべてを超えて、一緒に育んでいける場と時間を創っていく、
心通わせ、寄り添い合って、一緒に歩む道に、結んでいけますように。
明日 3月11日へ
祈りと願いのこころを添えて。
愛・I・わたし
そして
あなたさま、みなさまの幸せと平和へ
【受付終了】皐月の京都 滞在セッション開催
お客様から頂くご感想は手紙のようで
おついたち・言の葉のおくりもの
おついたち・言の葉のおくりもの
「またこの一ヶ月うまく商売ができるように」と、
新しい月の商売繁盛を祈念する日でもあります。
お赤飯を頂く習慣も。
神事としても、初め一日に早く起きて、
「朔日参り」をするならわしもあって、
無事に過ごせた1か月を感謝し、また新しい月の無事を祈ってお参りする日でもあります。
月の始まりは「月立ち(つきたち)」が転じて「ついたち」とよばれ、
朔日は「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読むようになりました。
この“おついたち”の、
『新しい月を祈念する』
の想いを、今一度、日常に取り入れさせて頂いて…
月初め、この一ヶ月をお過ごしになるにあたって、
ブログをご覧のみなさま始め、ご縁ありました皆さまに、エネルギーとなる言の葉、栄養素となります言の葉をお贈り出来ましたら…
と、掲載することにしました。
(グラン・タロー・ベリーヌ)
19世紀の有名な占術者であるエドモンドが製作。その弟子のベリーヌにより出版されたカード。
大アルカナのデザインには、エドモンドと同じく19世紀に活躍した魔術師で作家のポール・クリスチャンによる「魔術の歴史と実践」で語られた内容を描写。
某国の皇帝・御后も同等のカードでセッションしていたとのカードです。
⚫︎THOTH TAROT
(トートタロット)
現在ご提供メニューのセッションで、使っているカードになります。