祈り・平和・手を取り合って
本日のこちらは、雨降る一日となりました。
しとしとと、時折、ざーざーと。
強弱ある雨音と、感じる風には、
春を、確かに観じた一日となりました。
皆さまのお住まいはいかがでしたでしょうか。
明日はより気温上がり、こちらは20度まで上がるとのことです。
日中と朝晩の気温差あるこの頃。
どうぞご自愛くださいね。
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本日、3月10日。
75年前の本日は、東京大空襲があって。
そして明日、9年前、3月11日は、東日本大震災。
明日 3月11日へ
祈りと願いのこころを添えて。
犠牲となられた方々への祈りと、
お一人お一人の、平穏な日々への祈りを願いを。
そして、
全ての方々への平穏を祈って。
***
わたしは、救われたって、感じることが、場面場面で、とてもあったし、助けられたと感じることも、そう。
今現在も、たくさんあります。
救う、助ける、という言葉たちに、抵抗は無いし、むしろ、この言葉たちは、人にとって、力となる言葉だと観じています。
言葉って、その方々の生まれた時代背景、環境、経験、関わってきた人たちや、育んできたもの、成長過程によって、言葉一つとっても、解釈や認識、表現の仕方、捉え方、使い方は千差万別で。
だから、ということは、確かにあるかも知れない、とも観じていて。
その中、わたしは、
〈救い 助け〉
という言葉は、これからの一人一人の心の中に、とても大切で、必要な言葉だと感じています。
わたしにとっての
〈救い〉
は…
目の前に歩いていた方が、突然目の前で躓かれて、転んでしまった姿があったとして、
そこに手を差し伸べて、その方の転んでしまった身体の状態から、立ち上がる時に、手と手を取り合うこと。
その立ち上がった時に、洋服に土などが付いていたら、一緒に払って差し上げて、
『擦り傷無いですか。』
ですとか、
『どこか痛い所、無いですか。』
といった、お伺いをして、
『大丈夫ですよ。』
といおっしゃるのなら、
『それでしたら、良かった。道中お気をつけて。』
というように、お言葉添えて、その場を離れること。
だから、日常の一場面と捉えていて。
〈助ける〉
ことについて言うのなら、
地図を持って、これから何処かへ行こうされている、目的地がありそうな方が目の前にいらっしゃって、
次は、どの道なりだ?こっち?!いや、あっちかな?!いや、まてよ、というような、ウロウロキョロキョロしているご様子の方に、
『どうされました?道、お探しですか?』
って、お尋ねすること。
だから、こちらも、日常の一場面と感じる言葉。
その時に、
『あぁー!助かりますー!実はどこどこへ…』
と、おっしゃるなら、その時に、一緒に地図を観て、どれどれ?になるし、
その場所を伺っても、わたしにはチンプンカンプンであったら、
他の方に一緒にお伺いを立てるなど、その場で自分のできることでの関わりをもって、
わたしでない、別の方で、その行き方にお詳しい方がいらっしゃったなら、ある種バトンタッチするようにして、
『では、わたしはこれで…』
って、その場を立ち去ることで。
だから、助ける、という言葉にも、なんら、特別なことと思っていないし、こうだあぁだと、定義?するようなものでもなくって。
〈日常〉
救いも助けも、日常であること。
“日常の中に” あるもの。
躓いて転んで無い人に、
『転びました?!今?』
なんて、道端で急に聴くことは無いだろうし、
キョロキョロしてない人に、
『今、確実に道、迷ってますよね?!』
なんて、突如お伺いをすることも無いだろうし。
だから、救いと助けは、日常で、
過度に過敏になりながら、使う必要のある言葉でも無くて。
だから、
日常において、色々な場面で溢れている光景の中に、この
救いと助けも、
自然なこととして、
その時々の人との関わりや対話の中で、
こころ通わせ、寄り添い合って、
歩み寄る時間と場の中に、
お互いがお互いへ
自然に、
表現し合えるものとして、
そのこころ、大切に、
そう観じます。
そのような
救いと助けも含まれた、日常の中に、
自然なものとして、
お互いの対話と交流の中に、
笑顔が溢れ、喜びが溢れ、
一人一人の幸せが溢れている、
場と空間、時間があることを、
大切にしていけますように。
世代、性別、立場、国籍、
すべてを超えて、一緒に育んでいける場と時間を創っていく、
心通わせ、寄り添い合って、一緒に歩む道に、結んでいけますように。
本日 3月10日へ
明日 3月11日へ
祈りと願いのこころを添えて。